mecum omnes plangite

 

 


 チャイムなど、鳴らさない。

 懐から出した小さな銀の欠片を、対にと作られた穴に差込み、静かに回した。息づくものなど何も無いような薄暗闇と沈黙だけが訪問者を迎える。目的は、もうひとつ扉を越えた向こうに。パスワードは、中指の第一関節がドアに与える振動、二回。数拍おいて返された返事が、彼女の世界へ侵入する許可。

 その部屋はいつでも音に溢れていた。ピアノ、ヴァイオリン、ホルン、フルート。邪魔にならない程度に抑えられた至高の音達。悲しいことに、その上に重ねられた無機質なキィボードの音が非現実を許さない。折りしも曲はクライマックスを迎え、幾つもの楽器が重なり合いその強さを誇るが、誰もその部屋の主が奏でる冷たい音にかなうものはいなかった。

「ハィ、ルルーシュ。生きててなによりだわ」
「そっちこそ、捕まってなくて何よりだ」
「アタシがそんなヘマするとでも?」

 ヴァイオリンの最後の足掻きと無数のプラスティックボタンの耳障りなざわめきがBGM。最後に高らかな音を立ててエンタァキィを押し、部屋の主はようやく訪問者のほうに振り向いた。右手の人差し指と親指で近くのラックに置いてあった薄いケースを摘み上げる。

「頼まれてたもの、出来てるわよ」
「さすがに仕事が速いな」
「あたりまえでしょ、アタシを誰だと?」
「世界最高と言われるハッカーの一人、
ZIONだろう?」
「わかってるならいいわ」

 その身に楽園の名を抱く犯罪者は片頬を歪め、『何も無い』という名の仮面を持つ訪問者も似たような笑みを浮かべた。シンバルとティンパニが一時の静けさを壊し、悲鳴のような四部合唱がそれを追う。

「聞いたことがあるな、この曲」

 一転して囁くようになった歌声を壊さぬよう呟かれた問いに答えを返す。

「カルミナ・ブラナのファーストムーヴメント、
O Fortuna…『世界の帝王、運命の女神フォルトゥーナ』よ」
「重々しいタイトルだな」

 静かな歌声は続いている。オクターヴ違うだけの同じ音を追い詰めていく女声部と男声部。

「ラテン語か?」
「そう。大意の解説は必要かしら?」
「じゃあ、簡単に」
「オーケィ」

 静けさはそのままに、四部に別れた歌声。後ろを支えるのは刻むようなピアノと最小限まで抑えられたティンパニの震え。

「これは嘆きの歌よ。まるで月のように移ろいゆく、運命の女神に対する嘆きと呪詛」

 押し縮められていた楽器たちが、牙を剥いた。押し寄せる音と戦うように強められた歌声は、悲鳴か、それとも渇望か。

「気まぐれのままに幸せを与え、また奪い去る。我らは運命の命じるままに引き裂かれる。だから」

 メロディは荒々しさを増し、二部に戻っていた合唱がもう一度四部に分かれた。まるで岩礁に叩きつけられた波が砕け散るかのように。

「『皆、私と共に嘆くがいい』」

 ソプラノの悲鳴、アルトの怒り、テナーの哀しみ、そしてバスの絶望が、満ちた。全てを搾り出すように何小節も伸ばされた、ラストノート。息絶えるまで叫ばれた、その嘆き。

「と、まあ、こんな感じよ。すさまじいでしょう?」
「まあな。だが、嘆くだけじゃ何も変わらないな」
「あら、あなたなら運命の輪さえも壊してみせると?さすが、ゼロ。豪胆なことね」

 ようやく与えられた平穏な沈黙を、CDラックのボタン一つで壊す。もう一度流れ出す、嘆きの歌。

「謝礼はいつも通りでいいんだな」
「ええ。次は?」
「これだ。出来れば来週までに」
「ヨユウでしょ。五日後には用意しておくわ」
「頼もしいな」

 部屋を、もう一度無機質なタイプ音が満たす。命を懸けて歌われた嘆きさえ掻き消す現実。

「じゃあ、五日後に」
「バィ、ルルーシュ。せいぜい捕まらないように」
「お前もな、

 ぱたり、という音を残して、訪問者はまた無音の世界に戻ってしまった。だから彼は知らない。奏でられていた不協和音が止み、この部屋を女神への嘆きだけが支配したことを。


 閉じられたドアの向こう側を見つめた。知らぬ間に握り合わされた両手に気づく。哀しくも、祈る相手を持たない己。ああ、それでも。




どうか、運命の女神様

あのひとをつれていかないで。







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2/10/07 First Up
BGM: O Fortuna (from Carmina Burana by Carl Orff)