Act. 10  水平線の覚悟






!」

 サクラダイト配分会議のためかにぎわっているホテルのロビーで、私は聞こえるはずのない声を耳にした。振り返ってみれば、私服のミレイが人ごみの向こうから歩いてくる。後ろにはシャーリーも、そしてニーナまで。日曜にどこか行くとは言っていたけど、それが河口湖だとは思わなかった。

「みんなおそろいで。遊びに行くって言ってたのは、河口湖だったんだね」
「そうよ、でもがいるとは夢にも思わなかった。仕事なんでしょう?」
「そう。サクラダイト配分会議に出ろって、上からのお達し」

 先週学校で誘ってもらった時点では単なる特派への出勤日だった。それがおとといになって急にブリタニア本国からサクラダイト分配会議に出席しろという連絡が来たのだ。彼らの意図はよくわかっている。会議に出席している他国に、サクラダイト関連の特許を持つ研究者が自国の公爵であることを示し、交渉を有利に進めたいだけ。だから私の得になることなど一つもないし、正直言ってとってもさぼりたかったのだが。

、そういう格好してると見違えるね!会長が呼んだとき、最初気づかなかったもん」
「なんか、大人の人みたい…」
「一応国際的な会議だから、学生とはいえまともな格好しないとね」

 珍しく足元はパンプスだし、髪は上でまとめてある。ただでさえ童顔なのだから格好くらいまともにしないとどこの子供が紛れ込んだのかと思われてしまう。

「ねえ、会議っていつ…」

 ミレイがなにか言いかけたとき、がこん、という奇妙な振動が伝わってきた。地震かと一瞬思ったが、違う。何か大きなものが動いた衝撃。

「見て、橋が!」

 シャーリーが指差すほうを見れば、確かにホテルと陸を繋ぐ橋があげられていく。どうしてこんな時間に。同じことに気づいたのかざわめきのあがるロビーで、今度は悲鳴が聞こえた。ばたばたと誰かが駆け込んでくる音。動くな、と制止する声。いやな予感は、軍服に身を包み銃や日本刀を手にした数人が見えたことで現実となった。ああ、やっぱりさぼっとけばよかった。

「全員動くな!このホテルは今から日本解放戦線の指揮下に入る!」






 首筋に突きつけられた日本刀の乱れ刃が、まるで全てを燃やし尽くそうとする炎のように倉庫の薄暗さの中でゆらりと光った。なんて冷たい、炎。昔から日本刀は好きだった。刃文はまるで澄んだ湖の端を切り取ったようだと思ったし、緩やかなカーブを描く刀身は夜明け前の空に浮かぶ細い三日月――そう、まるで夜を覆う幕に爪で細くつけた裂け目のような銀色の月――そのままだった。床の間に飾られた刀を見てそう言った時、祖父は静かに言った。、覚えておきなさい。例えどんなに綺麗でも、これは人を殺すためのものなのだよ、と。確かに今、この日本刀はあと数ミリ、たったそれだけで私を殺せる。それでもそのきらめきは綺麗だった。

公爵とお見受けするが?」

 草壁中佐と名乗った男は、刀を突きつけながら皮肉めいた口調で聞いた。冷静さを装う瞳には隠しきれない苛立ちが見て取れる。偽りを言うつもりはなかった。その瞳を見つめ返し、正直な答えを返す。

「ええ、私が・ディ・ブリタニアです」

 解放戦線と人質の両方から、微かなざわめきが上がった。ブリタニア姓、公爵、そしての名。ひとつひとつがただでさえ大きな意味を持つのに、それを同時に背負うことの意味。

「ご自分に未だを名乗る資格があるとでも?日本を裏切り、ブリタニアにおもねり、公爵として悠々と暮らしているあなたに」

 草壁中佐は丁寧な口調で続けたが、その中に潜む怒りは隠しきれなかった。キョウト六家には及ばずとも名家として知られていたを継ぐ者がブリタニアの公爵であるということは、彼から見れば大きな裏切りであることに違いはない。中佐の目を見つめたまま、できる限り静かに、ゆっくりと告げる。七年前のあの日、覚悟を決めたから。水平線になる、覚悟を。

「私は、今でもです。そして同時に、・ディ・ブリタニアなのですよ。どちらか片方になることなど、出来はしません」

 例え全ての人に裏切り者と呼ばれようとも、半端な者として蔑まれようとも。わたしは、ハーフだ。









「剣崎さん、あとは、お願いします」

 水平線は。海と空、両方が無いと存在できないのだ。
 だったら私は、水平線だ。ブリタニアが欠けても、日本が欠けても、私は私じゃない。

「お嬢様、いけません」
「大丈夫。みなさんを、横浜を、お願いします」

 水平線はまっすぐじゃない。まっすぐに見えるだけだ。波は水平線を不規則に歪め、叩きつけられた風で水平線は揺れる。それでも私の目には、水平線はまっすぐに見えた。海でもなく、空でもない。だけど、海であり、空である、一本のまっすぐなライン。

 だから。

 私は海が荒れても、空が荒れても、人の目からはいつでもまっすぐに見えるように在ろう。だって私はブリタニア人で、日本人だから。例えなんと言われようとも、両方を裏切らないという覚悟を。両方であり両方でない、その覚悟を今、決めよう。

「やめよ」

 声は震えていないか。足はしっかりしているか。

「それ以上の破壊行為を、やめよ」

 さあ、背筋を伸ばして。凛と、在れ。
 まっすぐに、海でもなく、空でもなく、在れ。

「私の名において…公爵の名において、命じる!」









「裏切っていないとでも、言うつもりか」

 押し殺したような声と共に、刀身が微かに動いた。皮膚の上を細い氷が走ったような感覚を首筋に感じたが、視線はそらさずに中佐の目を見つめる。この覚悟は、譲れない。
 中佐の後ろで銃を構えていた青年が、躊躇いを含んだ声音で中佐を呼んだ。

「なんだ」
「今でも家は、いくつかのゲットーに対して積極的な支援をしています。自分はのお屋敷があったヨコハマゲットー出身ですが、あそこの復興は他のゲットーに比べて格段に速く、状態もよいと言えます」
「だから裏切っていない、と?」

 私を睨みつけていた視線が離れ、その青年の方を向いた。その怒りに押されてか、口をつぐんでしまった青年を数秒間見つめたあと、中佐はゆっくりと突きつけていた刀を引いた。首筋に手をやればやはり少し切れていて、今更襲ってきた微かな恐怖と痛みで顔をしかめる。

「どちらにしろ、公爵の存在はよい交渉材料だ。別室に来ていただこうか」

 立ち上がる隙に、後ろ手でミレイの手を一度ぎゅっと握る。ついでに、後方にいる似合わない眼鏡をかけた従妹にも微かに微笑んでみせた。命じられるまま倉庫の外、明かりの下に出る。



 願わくはもう一度、太陽の下を歩けますように、なんてガラでもないことを思った。






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2/15/07 First Up